StarDust Tears

乾敏郎『感情とはそもそも何なのか』(ミネルヴァ書房)

 深見真先生のブログで知って読んだ。ってあらためてブログ見たらサラッと触れてるだけで内容はほとんど紹介されてなかった(笑。 なんで読もうと思ったんだろう。「面白かった本」とあるので、そこは深見真先生への信頼感か。先生は例の『機械カニバリズム』も読んだとのことで、さすがにいろいろ読んでるなあと感服。

 さてこの本、まえがきを読むと、

ところが、最近感情を含む脳の多くの機能をとらえるための大統一理論が提案された。それは、「自由エネルギー原理」とよばれる理論である。これは、人間や動物の脳がヘルムホルツの自由エネルギーを最小化するように動くことで、知覚、認知、注意、運動などが適切に機能しているという理論である。
とあって、「感情」の話をしているのに自由エネルギー原理って用語が出てくるのがむちゃくちゃインチキくせえ! とのっけから思ってしまって(笑、悪くいえばオカルトというか、心理学寄りのトンデモ学説なんじゃねえの……? と思ったのだが、結論からいうとこれは脳が様々な「推論」を行う際に確率計算をする数学的な処理の話だった。最初のほうでは(先行研究の紹介として)感情を「感情価」と「覚醒度」の二つの軸でマッピングする、とか、いまいち実証的な根拠のなさそうな話が続いて、大丈夫かこの本? と思ったんだけど、全体としてはメッチャ面白い。「感情とはそもそも何なのか」という書名もあんまりよくないよなあ。「感情」へのアプローチが根っこにあるのかもしれないけど、脳科学の本としてかなり広い範囲を扱ってるんではないか。たとえばアイオワギャンブル課題(確率的に損な選択をする時、意識がそのことを学習するより以前に脳が信号を出している)とか、ミラーニューロンは他人の動作を見るだけで自分がその動作をするのと同じ働きをして学習するとか、マインドワンダリングという話も最後の方で出てきたりしてこれはいわゆるマインドフルネスの対極の状態であるって別の本で読んだなあとか、ここ数年で見たり聞いたりした「最新研究でわかった脳のトリビア」みたいな話がだいたい全部出てくる感じ。奥付の発行日は2018年9月30日か。
 ただ深見先生も「めちゃくちゃ内容難しかった」と書いてる通り、決して読みやすい本ではない。左開きの横書きで、読点にカンマが使われてる理系論文ぽいフォーマットだし、チャートやグラフ、数式までバリバリ出てくるパートもあって、もちろん数式の意味なんか全然わからんのだが(笑)、集中して文意を取りながら読んでいくのがけっこう大変。あまり長くないのが救いだった。この内容をもう少し噛み砕いて分かりやすく書いた本があれば有り難いなあと思ったが、あまり説明的に書くと抜け落ちてしまう情報もあるだろうし、それこそバラバラのトリビア集みたいになってしまっても勿体ないし、サジ加減が難しいところか。

 上に「推論」と書いたけど、これは人が意識して何かを推論することだけではなく、そもそも脳の活動はまず脳が「予測」したものと感覚器官・内臓から神経系に上がってくるフィードバックを擦り合わせて予測誤差の大きさを見て次の予測を修正する、という処理の繰り返しから成っているというのが本書における基本的な脳のモデルで、つまりあらゆる局面で脳は「推論」を行っている。ちなみに総合失調症の人が自分の行動が誰かに操られているように感じる「やらされ感」はこの脳による「予測」と実際の身体感覚の誤差が大きいために起こる、とか、催眠状態で自分の身体が勝手に動くように感じている時は脳からの予測信号がブロックされている、とか、いろんなことがこのモデルで説明されていて面白い。
 また、たとえば目で見た映像は網膜から入力された時点では二次元の情報だが、それを元に三次元の空間認識を再構成する際にも、見た物の大きさ・距離などを脳が「推論」し、三次元の情報として矛盾がないか検証、を高速で行っているという。
 それからもっと一般的な意味での推論、たとえば「家に帰ったら窓ガラスが割れていた」という場合に、その原因は何かを直感的に推測する際、どのような原因がありうるかといった知識から得られる情報をいくつかの変数として、最も確率が高い原因を計算で求めている。

上式を最小化するφを求めるには、上式をφで微分して、関数の傾きを求めると、

(数式省略)

となり、この傾きが限りなく0になるφを求めることになる。しかしこの値を脳が数学のように解析的に解いているはずがない。通常神経回路が解く方法はφの値を自動的に変化させて最小値になったところで止まるようなやり方である。数学的には最急降下法とよばれているような方法であり、ここではそのこころを説明する(図Ⅱ-16)。図では、仮に関数の形が放物線であったとして書かれているがどんな形でもかまわない。φの値を少し動かしてみる。傾き正の点では、φの値を小さく、傾き負の点ではφの値を大きくする。すると徐々に関数の谷底に近づき、関数の傾きが0になるところでストップすることがわかる。このような処理はごく簡単に神経回路で実現することが可能である。神経回路網の処理は電気的に行われるので一瞬にして求められるのである。

 ここでは数学的に確率の最も高い事象が、グラフの傾きが最小になるφの値を求める処理によって導かれるのだが、グラフの傾きとは微分係数のことでありやってることは微分そのものである。その処理がごく簡単に神経回路で実現する! それも神経回路網の処理は電気的に行われるので一瞬にして求められるという記述にはシビれた。よくわからんがすごい!(笑

 他にもいろいろ気になる話はあって、脳の報酬系の話だと、

また、どのくらい先の報酬を考慮して現在の行動選択を行うかは、セロトニンという物質の量によって決まると言われている。セロトニンが十分だと、先々のこと(報酬)を考えて現在とるべき行動選択の学習ができるようになる。
 セロトニンはいろんなところに出てくるな……。

 あとは、鬱病の本質は脳神経の「炎症」だという話が出てきて、脳が炎症!? ってビックリしたんだけど、

炎症は、化学的、物理的作用や細菌感染によって生じる細胞の反応である。
とされていて細胞レベルの話なのね。でも例として「スギ花粉によって起こる炎症」つまり花粉症などと同列に語られていて、いわゆる「炎症」という理解で間違いないようだ。細胞間の情報伝達を司るタンパク質・サイトカインの一種が原因らしいとのこと。

 この本に最新研究の成果として書かれているあれこれがだんだん世間一般にも下りてきて、行動経済学なんかに援用されたりもして、そうやって世の中は進歩していくんだろうなあ。と思える本でした。

 巻末付録としてヘルムホルツという人の評伝。1821年生まれ、エネルギー保存則の発見者の一人にして、今から150年以上も前に「目を動かしても世界が止まって見えるのは脳が補正してるからだ」という仮説を立てたり、「心理学における帰納的推論の重要性」を説いたり、まさにこの本のベースになる主張をしている。一種の天才か。

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