朝一それなりに早めに行ったのだが意外と並んでる人が多かった。それも見た感じアニメの客じゃなくいつもの早稲田松竹の客層という感じで、普通に邦画として認知されてるのかなあと思いました。ただの印象ですが。まあオタクだったらとっくに観てるよな。
『きみの色』『化け猫あんずちゃん』
『きみの色』って、要するに「人のオーラの形が見える」系のフシギちゃんをマイルドにしただけだし、色を音で表現しようとか共感覚みたいな話に持っていくのもあまり機能してない。ミッションスクールのお嬢様が実はギター弾いてる的なのもザ・意外な二面性て感じでありきたりに見えるし、テルミンも珍妙な楽器としてフィクションでよく扱われるのでいい加減手垢がついてさすがにもう物珍しさもない。日吉子先生がさわ子みたいなポジションかなと思ってたら本当に昔ロックバンドやってたとか言い出すし、全てがベタじゃん!
図式はそうなんだけど、中身は主人公の少年少女三人の内面にひたすらフォーカスしていて、具体的な社会との軋轢みたいな部分はほとんど描かれない。特にきみちゃんは、学校辞めたのを現在の保護者である祖母が知らないのはなんぼなんでもありえないだろ! バイトしてる古書店の人間が一切出て来ないのも異様。まあたぶん最初の脚本にはあったのを削ぎ落として最終的にこうなったということで、これが監督の意図した映画なのだろう。三角関係にもならないし、どこが焦点なのか見えないというか、一つくらいもっと強烈なフックがあったほうがよいのではとは思った。
バンドやる話になるのは知ってたけど、最初に三人で演奏するシーンはいきなりテクノポップに仕上がってて噴いた。確かにあの三人を一つにまとめるとしたらあれが最適解というか唯一成立する形であり、ルイ君はプロデューサーとしての才覚が相当あるよな。あえて知らない女子に声かけてバンド組むよりさっさとボカロPにでもなってればいいのにと思った。
そして最後のライブシーン、ルイ君はノートPCから出すシーケンス、手元のアナログシンセ(?)、テルミン、足踏みオルガン、そしてトツ子のRolandのシンセ、と大量の機材を持ち込んでいて、ライブハウスのPAでも頭を抱えそうなのに学校の体育館で専門の音響スタッフもいないだろうに初めて舞台を踏む人間がどうやってセッティングしたんだよ、とまず思ってしまった。あとトツ子はふつうに鍵盤弾けるのに最初の曲では堂々と一本指奏法してるのが逆にすげえと思った。
「善きもの、美しきもの、真実なるもの」というフレーズが出てくるが、これって明らかに真・善・美のことで、私の知る限りこれはキリスト教とは直接関係ない文脈で生まれた概念だと思うのだが、なんで日吉子先生から語られるのか不勉強でわかりませんでした。誰か解説してないかな。
「水金地火木土天アーメン」てのもちょっと苦手なノリだなあと思いました。スベってるよね。
『化け猫あんずちゃん』は存在することすら知らなかった映画なのだが、山下敦弘監督じゃん! 早稲田松竹は山下敦弘をフィーチャーしすぎじゃない? 監督が二人連名になってるのは実態はアニメーションとしてのディレクターがもう一人の久野遥子なのかな?
そしてこれ、いましろたかしのマンガが原作だったのか。しかもコミックボンボンに連載されてたと知って仰天。キッズにいましろたかしを読ませてたの!? と思ったが、連載が2006年からって末期のボンボンがどんなだったか全然知らんな。その後すぐ休刊したわけだから迷走期だったのだろう。
今回の話は主人公のかりんちゃんにしてからが原作にいないキャラなのだそうで、化け猫がかりんのイマジナリーフレンドのようにも見える構造はちょっと『若おかみは小学生』の映画版に近いかなと思った。亡くなった母親に会いに地獄(!)まで行くのはまだしも、普通に現世まで連れ帰ってきてしまう展開は軽率にやっていい話じゃねえだろ、と思ってると「死人は臭い」とか言ってカラスが群がってくるなど、どういうノリなのかよくわからない。原作とも全然違うんじゃないの? てのも気になる。読んでみるか。
親父のてつやのクズっぷりとその娘であるかりんちゃんの性格、あんずちゃんとの関係など演出は山下敦弘映画としてみるとそれなりに納得感はある。のだが後半のぶっ飛んだストーリーはここまでやる必要あったのか? と。実写では絶対できないからやってみたくなったみたいなことなのかな。
あんずちゃんの友達の妖怪変化の中に砂かけばばあみたいなのがいて、ゲゲゲの鬼太郎以外で初めてみた(EDロールでは「おばば」)。
コメントする