StarDust Tears

『フェラーリ』『エドガルド・モルターラ』

早稲田松竹

 ブランドとしてのフェラーリは好きだけどお家騒動の話(?)はあまり興味ねえなあと思ってたのが速水健朗Podcastで紹介されてるの聴いて気になって、同じ流れで観たというyomoyomoさんのレビューでマイケル・マン監督だったのか、と気づいてじゃあ観ようとなった。モーニングショーの『ゴッドファーザー』と併せて三本ともイタリア系の家族を描いた映画ということで「巨匠たちが描く<ファミリア/Famiglia>」という企画なのだが、マイケル・マンももう「巨匠」なのか……。

 『フェラーリ』はアダム・ドライバーがエンツォ・フェラーリで、エンツォってどういう人かよく知らなかったけどレーシングドライバー上がりのレースバカで、クルマを売るためにレースやってんじゃねえレースのためにクルマ売ってんだ! という感じで会社が破産寸前になってもレースにのめり込んでいる。逆に大きいレースに勝てば宣伝になってクルマも売れるだろうという見込みもあってバクチみたいになってるわけです。この年(1957年)前年のフェラーリ販売台数が百台を切ってたという話が出てきて、資金援助の引き合いがある大量生産のフォードやフィアットに対してフェラーリは高級車を王侯貴族に売る時代遅れの商売として描かれる(顧客としてヨルダンのフセイン国王が登場する)。さらに戦争中ナチスに資産を押さえられそうになった際に工場を妻ラウラの名義に変更していて、その妻との関係が破綻寸前なので、妻相手にもタフな交渉を強いられる。この前年、難病で息子を亡くしているんだけど悪いことにそのタイミングで愛人との間に認知していない息子がいることがバレるという(銀行の担当者が口を滑らせてバレるんだけど銀行員てこんな役回りが多いな)。エンツォの兄も戦死してて母親は「あの子(エンツォ)が代わりに死ねばよかった」とか、「後継ぎを生んでやったのに!」と言う嫁のラウラに「一人じゃ足りなかった(病死しちゃったから」と言い放ったり、ド迫力のお婆ちゃんなのだが演じたDaniela Pipernoが大竹しのぶ似で気になった。閑話休題。
 ミッレミリア(イタリア語で「千マイル」の意)という文字通り1,600キロの公道レースがクライマックスなんだけど、映画としてはレース描写にも力が入っていて家族のドラマとちゃんと両輪になっている。フェラーリが子供含む9人死亡する事故を起こしてそれが原因で同年を最後にこのレースは中止になるんだけど、よくこんな無茶なレースやってたな。ここも含め2回あるクラッシュシーンの描写もやりすぎじゃないかってくらい物凄い。
 あと史実だから仕方ないんだけどマセラッティ(今は「マセラティ」表記がスタンダードなのか)も真っ赤なのでフェラーリと識別しづらいよ! さすがに映画のウソで色を変えるわけにもいかないよな……。

 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』は全く何も知らないで観たが実話なのね。すごいドラマだった。
 19世紀の中葉、ボローニャに生まれたユダヤ人のエドガルドが6歳の時に突然、カトリックの異端審問官の訪問を受け連れ去られるシーンから始まる。原題は "Rapito" で「誘拐された」の意。このへんは歴史的背景を知らないとよくわからんのだけど、当時ローマ(教皇領)の統治下にあったボローニャでは教会法によってキリスト教徒は異教徒の家庭では育てられないという理屈で、なぜかエドガルドが出生直後(両親も知らない間に)キリスト教の洗礼を受けていたことが密告(?)されユダヤ教の家庭から隔離されてしまう。両親は当然、子供を取り戻そうとユダヤ人コミュニティの協力に訴え長老会の影響力で欧州各国の政府から政治的な圧力をかけたり新聞が風刺画でスキャンダラスに報じたりするんだけど、逆に頑なになった教皇はゲットーの代表を呼び出して恫喝し屈服させる、など教皇ピウス9世が完全に悪役として描かれる。ていうか6歳の子供を受洗したからキリスト者だという理屈で家族から引き離す時点でドン引きの狂信性なのだが、なにしろカトリックの総本山である。子供を取り返そうとするユダヤ人側と教会の駆け引きが続くんだけど、父親が面会に行っても司祭らが立ち会ってることもあってエドガルドは感情を表さず「元気だよ」などと言い、「振り返りもせず戻って行った」、だが母親と会った際は堪えきれず「みんなと会いたい、帰りたい」と泣き出すなど、抑圧された子供の心理描写が個人的にはグッときた。ゲットーの代表は「子供が元気で何の問題もないというのではまずい、母親に会えなくて食事もノドを通らず死にそうだと言え!」などと入れ知恵するのだが実直な父親は「事実と違う」と困惑してそういう駆け引きができない。中盤はサルデーニャ王国がボローニャを解放したことにより裁判でこの件が裁かれる法廷劇になるのだが関係者の証言が食い違って真相がわからない、このへんをもっとやってほしかった。当時使用人として雇っていた移民の女の子が、生まれた直後のエドガルドが熱で死にそうなのを見て、「このままでは辺獄(リンボ)に落ちる」などと雑貨屋に唆されて彼の魂を救うために洗礼した、やり方もそいつに教わった、などと証言するのだが相手の雑貨屋は否定、医者も両親も子供が死にかけた事実はなく軽い発熱だったと言う、など。洗礼そのものも無知な女の子が額に水を垂らしただけで成立しちゃうのかよ。なぜ6年後になって受洗の事実が発覚したのかについても、問題の女の子が教会に訴えて見返りに金を受け取っていたことが判明して、金目当てじゃねえか! ってなるんだけど映画的にはあくまでこの女はただ無知で善意のキリスト教徒だった感じに描かれている。このへん実際どうだったのか、本にもなってるので読んでみたい。まあ当時の記録からわかることは限られているだろうけど。結局、実際に子供の拉致を実行した修道士は当時の教会法に従って仕事をしただけで責任は問えない、という判決で、父親が「どういうこと??」となってるとゲットーの人間は「教会の人間を提訴して被告に出来ただけでも自由主義の大きな前進だ!」とか言うてて、完全にイタリア統一運動の政争の具にされてるだけだったことに気づいて父親は号泣。
 それから十年、教皇のお膝元ローマで教育を受けたエドガルドは学力も高く教皇の覚えめでたい司祭となっている。サルデーニャ王国軍の兵士として進駐してきた兄と再会するも「帰る気はない、ここが自分の家だ」「両親を苦しめているのは知っているがこれが自分の人生だ」と、もう完全なキリスト教徒になってしまっている。母親の危篤の知らせを受けて家に帰るんだけど、ここでも臨終の秘蹟を行っているユダヤ教の祭司と同席できないので一旦退室してもらうなどあくまで断絶が描かれる。父親の葬式にも出られなかったと。そして「この日を待ってた」とか言うて母親に洗礼を施そうとするんだけど拒絶され、いい加減にしろ!と兄貴にブン殴られ追い出されて終了。その後も宣教活動を続けて1940年に死んだ、と事跡が字幕で出て映画は終わる。
 この、教育の恐ろしさを描いた話がツボなんですよね。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』では日本で生まれユダヤ人の親友がいた日独ハーフのアドルフ・カウフマンがドイツに連れて行かれてヒトラーユーゲントに入れられると、数年後バリバリのナチスエリート将校になって再登場する。これがすげえ衝撃的だった。それだけ思想教育というのは強烈で、それも子供がなかなか抗えるものではない。ジョン・フォード監督の『捜索者』はジョン・ウェインがコマンチインディアンに兄の一家を殺され、姪が死んでいないのでコマンチに拉致されたと想定して追跡する、という話なんだけど、「コマンチに育てられた白人の子はインディアンになってしまうので殺すしかない」と言ってて実際数年後に発見した姪っ子はすっかりコマンチになってるように見えるんだけど何やかんやあって最後は助け出して帰ってくる、という結末だった。ジョン・ウェインの西部劇だから(彼自身はまた孤独に去るというラストではあるけど)一応ハッピーエンドになってるけど、幼い子をさらって育てるとインディアンになってしまう、というのが印象に残った。閑話休題。

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