StarDust Tears

久保明教『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』(講談社選書メチエ)

 先日のシンポジウムの記事が思いの外たくさんの人に読まれてしまい、中でも久保先生登壇のパートは理解できたことしか書いてないので、って理解してないことは書けないから当然なんですけど、書き漏らしたことが特に多く、しかも好意的な書き方をしたとも言えないので忸怩たるものがあり、自分の中でもフォローしなきゃなあという思いがあったので読んだ。いや、もちろん面白そうだったからでもあるんですけど。

 同じ理由で高橋弘希先生の芥川賞受賞作もこのあと読む予定です(笑。

 ただ今回も一度通読しただけでメモも取れていないので何が書けるのかは心許ない。

 まず言えるのはこれ将棋ファン必読の書だということです。全八章のうち前半の五章までが将棋電王戦およびコンピュータ将棋について書かれている。率直に言って書名に「将棋」の語を含めなかったのはマーケティングのミスだと思う。まあ全体としては「将棋の本」というわけではないから正しいんだけれども......。

「電王戦」5年間で人類は何を目撃した? 気鋭の文化人類学者と振り返るAIとの激闘史。そしてAI以降の"人間"とは?【一橋大学准教授・久保明教氏インタビュー】

 この記事も不覚にもつい最近まで読んでなかったんですけど、ここで語られている電王戦についてのあれこれはかなりの部分、本書のベースになっている。ただ先日のシンポジウムでもそうだったけど、どうしても話し言葉では十分に説明しづらい抽象的な話はインタビュー記事にはなりづらいし、だから本を読むべきだと思ったのでもある。

 まず全体の前説として、人間と機械/技術との関係としては従来、「機械がどうであれ結局は使う人間次第である」という「道具説」、それから「技術が社会の変化に影響する」という技術決定論=「自律説」の二つの考え方があるが、どちらも採らず、人間と機械が組み合わさって相互に影響し合う第三の存在が成立するとみなす。人類学は近代的な学問の立場を前提として異文化を自文化に紹介するものであったが、近代文化の視点を自明の前提とせず異文化と出会うことで自文化も影響されるのだという考え方が登場してきた。ヴィヴェイロス・デ・カストロいわく、カニバリズムとは「(食人を通じて他者を自らのうちに取り込むことで)他者の視点を獲得して自分を捉える」営為と位置づけられるのだとか。つまり機械カニバリズムとは「機械の視点から人間を捉える」すなわち人間なきあとの人類学である、と。
 メモ取ってないので既にここまでの要約が正しいか自信がない(笑。

 もっと難解な記述を覚悟していたが、特に学問的な素養がなくても普通に読める。というか、五章までは将棋ファンであれば棋書として読めるだろう。棋士のインタビューも参照されるし、符号も出てくる。電王戦のあとにいくつも出たルポルタージュ本のように、といってもそれらの多くはそもそもコンピュータソフトの性質を理解していないな、と、仮にもプログラマの端くれの目からは感じられてしまうものも多かったが、本書はそこはテクノロジーを専門とする学者だけに、技術の本質に関する理解が十分なのみならず、さらに人類学の視点が出てくるわけである。上のインタビューにもある、将棋は論理のゲームであると同時に「情動」のゲームでもある、という部分など。羽生いわく大局観の基準になるのは「美学」「美意識」に近い価値観であり、それこそコンピュータにないものではないのか。阿部光瑠のコメントにある「コンピュータは怖がらない」という言葉が意味する、難解な局面に飛び込むことに対する「不安」「恐怖」、逆に玉を固く囲うことの「安心」といった心理がどの水準で判断に影響しているか、また千田翔太のように「恐怖のないコンピュータの思考手順」を内面化することで「安心」できる大局観を築く、などなど、ここは人類学者である筆者の独壇場。電王戦関連書籍の中でも無類の面白さと言ってしまおう。

 個人的には電王戦の最初から最後まで将棋ファンとして強い関心を持てたわけではなくて、というのも人間は必ずミスをするのに対してコンピュータはどんな長期戦でも常に同じ力を発揮し続けることができ、その意味での「ミス」はないわけだから、将棋というゲームの性質上、競り合うと必然的にミスの差で人間が負けてしまう。その部分で勝負するのを見たいわけではないというか、原理的に勝負にならないわけだから、むしろ人間側のミスをなくすルールを提案した森下卓の対局(本書にも紹介される電王戦リベンジマッチ)に注目していた。継ぎ盤を使用し、さらに持ち時間が切れたら一手15分以内という制限で「秒に追われる」ことをなくしてミスの生じる余地の少ない条件を設定。実際に格上といってよいであろうツツカナを相手に優勢を築くも、対局が一昼夜に及んでも終局に至らず、対局者である森下は続行を希望したがニコニコ生放送運営側の中継スタッフの体制が限界ということで立会人の片上理事の判断で指し掛けになった。当初は後日指し継ぐ予定とされていたものの実施されず判定で森下勝ちという結論に。この時に十分な経緯説明のアナウンスが行われなかったため、人間が中途半端なところで勝ち逃げしたような印象を残した憾みがあると思っている。閑話休題。

 六章以降は、一旦将棋を離れて、朝井リョウの『何者』などを引きながら、ブログからTwitterなどのSNSへといった個人の発信手段の変遷と発話者の人称の問題、「炎上」が実社会に影響を与える現象とフーコーの「生権力」、だとか、コンピュータが判断・評価の主体となりうる現在ではサールの「中国語の部屋」の命題は成り立たないという話などなど、いろいろあったけど一回読んだだけじゃ要約も無理っすね、はい。

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