StarDust Tears

将棋と文学シンポジウム 二日目

http://www3.u-toyama.ac.jp/kotani/shogi/

 以下、敬称の不統一は主にしっくりこないという書き手の気分の問題によるんですけど、最低限失礼のないようにはしたつもりなのでご寛恕下さい。

セッション 3 将棋と文学の交錯 10:00 ~ 12:00

西井弥生子/本多俊介/近藤周吾/田丸昇

 昨日ちらっと書いたけどこのパートが私の漠然とイメージしていた「将棋と文学」シンポジウムに近かった。つまり通常の作家研究の手法で、特に将棋関連作品を対象とする、という。西井氏は菊池寛、本多氏は坂口安吾の、どちらも盛んに研究されている大作家だが通常は顧みられることの少ない将棋を扱った作品を拾っていく、地味だがこの研究会だからこそやる意義のある仕事。

 本多俊介氏はいわゆる在野の研究者で、「今日は趣味人、ディレッタントとして発表します」とのこと。しかも同姓同名の別人がNHK杯の観戦記を書いていたことがあるそうで、「将棋ペンクラブの会員として書いたものを発表したのは自分のほうが先なのでそのまま本名で続けている」とわざわざ断っていた。律儀で好感が持てる(笑。
 安吾自身は囲碁が好きで将棋は知らないと強調しているが、「好きじゃないけど面白い」といった彼のレトリックは独特で真意が取りにくいので注意が必要だという。本人は書いていないが関係者の日記などで安吾が将棋を指している記録が確認でき、また短編『桂馬の幻想』における観戦記風の文体も用語の使い方が的確であるなど、実に行き届いた研究。まだ頭角を現す前の大山康晴を評価していた先見の明、というのも気になる。安吾が書いた観戦記3局分(いずれも木村義雄の対局)全てが初めて一冊に収録された作品集が去年ひっそり出ていたのだそうで、読んでみようかと思ったら中公文庫、電子版がないのか。

 近藤氏は一番話し慣れというか発表慣れしている感じで、発表の持ち時間を「今日は20分切れ負けとのことですので......」とまず一笑い取ってた。その手があったか。
 日本では小林秀雄に始まる1950年代の「人生観」ブームを背景に、各界の文化人が人生観的な文章を書いたものを雑誌『世界』に掲載したのち岩波新書で二冊刊行、計40名の中に将棋の木村義雄、囲碁の呉清源が含まれていたと。で、木村義雄の人生観を巡って小林秀雄と坂口安吾の対立をみる、という正調の「将棋と文学」でした。

 田丸先生は論集には山口瞳について書いてますが、それとは別で「棋士と作家の交流」と題して座談風に発表。大山、升田、中原、羽生の四人とそれぞれ交流のあった作家のエピソードを語るも、羽生は宮部みゆきと対談したことがあるというだけだった。こういう話をする時に羽生を出さなきゃ聞き手が納得しないだろうみたいな感じ、そろそろいらないんじゃないかなあと思った。この場は学問的なシンポジウムであるわけだし。
 まず大山康晴は岡山出身であり、横溝正史が岡山に疎開していた関係でのちの奥さんと娘が知り合ったとかで縁ができ、大山が上京するにあたって横溝が世話した荻窪の家が井伏鱒二のすぐ近所だった、という流れになる。さすがに大物である。次の升田は吉川英治と仲が良かったというが、升田のキャラに宮本武蔵的なものを見ていたというような話で、前の近藤氏の発表でも『宮本武蔵』を巡る小林秀雄と坂口安吾の評価の対立というような話が出てきたが宮本武蔵の影響力の大きさよ。しかし吉川自身が升田を英雄視していたというのは興味深い。
 中原になると友人は渡辺淳一で、格が落ちるなあと思ってしまったが(失礼)、語り手の田丸九段自身も親交があったとのことで、実力はアマ二段くらいあった、と。個人的には渡辺淳一は好きな作家ではないけど、将棋世界に登場したのを読むと棋力は相当ありそうだな、それこそ文壇ナンバーワンじゃないかという印象を持っていたので少し意外だった。なんでそんなに強そうだと思ったのか今となっては覚えてないけど。「のたうち回っても指す」という粘りの棋風だそうで、「安楽死の小説を書いた人とは思えない」とコメントしてたけど笑えない(笑。
 それから内田康夫が『王将たちの謝肉祭』という将棋界のモデル小説を書いたことに言及。これは私も読んだ。

 執筆中に羽生のNHK杯戦デビューがあり、羽生善治のみ実名でワンシーン登場する。
 田丸先生とは仲が良かったから続編を書くようお願いした、というので、雑談の中で「書いてくださいよ」と振ってみた、くらいの話かと思ったら、「大崎善生編集長の時代にかなり折衝したんだけど、売れっ子だから各出版社持ち回りでスケジュールが埋まっていて将棋界の付け入る隙がなかった」と言ってたので相当本気で実現に動いたらしい。

 中原のくだりに戻るが高柳門下の兄弟弟子にあたる角川歴彦が奨励会初等科に所属していた、という話が出た。角川歴彦が奨励会上がりという経歴については以前気になって調べたけどわからなかったことがあったので、思わず質疑応答で田丸先生に質問してしまった。「父である角川源義の影響力で押し込まれたのだとするとご本人の実際の棋力はどの程度だったのでしょうか?」みたいに失礼な訊き方になってしまい期せずして会場に笑いが。「初等科に入れたのだからアマ初段以上はあったはず」とのこと。発表の中では角川氏には少し触れただけだったのに、すぐに手元の資料から本人のコメントを引いて回答して下さったのには驚きました。ありがとうございます。

対談 1 将棋/コンピュータ/物語 13:00 ~ 14:00

久保明教(人類学者/一橋大学)× 小谷瑛輔(富山大学) 進行:矢口貢大

 面白かったけど、要約が難しい。両者の間で言葉が上滑りしがちなのを苛立ちながら何とか擦り合わせる、ようなやり取りが続いたので、書き方がまずいと誤解を招きそうだし怒られそう。
 久保先生は一見して態度がよろしくないなあと感じたのだが話し始めてもその印象は変わらず(笑)、このシンポジウムのテーマそのものをひっくり返すようなトリックスター的な役割を演じるには合ってるのかなと。
 文系の学問をやっていると日本語の言葉の貧しさに絶望する、一方で将棋は「棋は対話なり」と言われる通り言葉なしでやりとりが成立、つまり何らかの意味が伝わるわけで、あくまで「言葉」を対象とする文学と、言葉がないところに本質そのものがある将棋、全く異質なもの同士の関係であるという構図がまず示される。
 絶えず「言葉」をベースに考える地点に戻ろうとする文学研究者の小谷氏に対し、久保氏はその枠の外側に視点を持っていくにはどうするかを繰り返し述べるようなやりとりで、いかにも前者が守旧的な立場に見えてしまうような瞬間はあったので、少なくとも後者の問題意識はこの場で可視化されたといえるのでは。
 ソフトが人間に勝つのだから少なくとも将棋においてはAIが歴然と「人間より正しい判断」をしているわけで、しかもその判断は機械学習の積み重ねで出された結論なので、人間に理解できるような判断の筋道も理由も説明もない。「正しい結論だけ」がある、という状況は、敷衍してたとえば「自動運転におけるトロッコ問題」を例にとると、人間が判断しろと言われても倫理的に結論を出せないようなケースに対して、機械はディープラーニングによる「判断を下してしまえる」。その判断が人間には説明できない、しかし「正しい」判断だとしたらどうするのか。これが現在の人間に突きつけられている「言葉の限界」ではないか、という話だと理解した。
 ところが後半は『りゅうおうのおしごと!』の話になり、私も全巻読んでるし期待したのだが、両者ともラノベであることを留保しながら評価しようとするんだけど、あまり既存のラノベ論の枠内に収まらないようなものはなく、ちょっと拍子抜け。でもお二人ともりゅうおうのおしごと愛読してるのは好印象(笑。
 作者の白鳥先生が棋士にインタビューする度に「才能とは何か」を質問していることに対し久保氏は「むしろそんなに言葉で表現できると思っているのかと驚いた」と言ってたのは印象的。文学は言葉を前提にしすぎ、という指摘を端的に表している。「熱い」とか「天才」とか、直接書かずに描写によって表現するのが近代文学なのにダイレクトな言葉をバンバン使ってしまうのがラノベであり『りゅうおう~』であり、それをただ稚拙な小説というのではなく、重ねて使うことで言葉の意味がズレて行く、書いてしまうことでその先の別のものが浮かび上がってくる、という風に積極的な読みを入れようとしているのだが、うーん。

対談 2 盤上遊戯と小説 14:10 ~ 15:10

いとうせいこう(小説家)× 若島正(詰将棋作家/京都大学名誉教授)

 将棋からは離れる部分も多かったが面白かった。冒頭で若島氏によるいとうせいこう新作紹介が始まった時はどうなることかと思ったけど。
 いとう氏がデュシャンのチェス研究書を試訳しているのを見て若島氏がコメントしたのが交流の始まりだとか。リンク先にある通り僅か千部の稀覯本だったのが「神田の古書店で60万円もしたのを、エッセイの賞で出た賞金100万円を受け取ってすぐ買いに走った」というエピソードを披露すると、「その後復刻本が出ておりまして......」と現物を取り出す若島氏(笑。
 ここからソシュール、デュシャン、ルーセル、そしてベケットやジョイスやエリオットなど、「チェスにハマった作家はアナグラム、リポグラムなどの技巧に傾倒する」例が多いという話になる。ルイス・キャロルなどもわかりやすい。そして若島氏からは、いかにも同じ系譜に属していそうなポーが『モルグ街の殺人』の枕でチェスを「複雑なだけで分析的でない、計算でなく注意力で勝てるゲーム」と退けドラフツ(チェッカー)のほうがロジカルであると書いていることを指摘。ポーともあろうものがなぜチェスに対してこんな「誤解」をしているのか? というと、モルグ街が書かれた1840年代にはチェスはまだ現在のような知的ゲームの象徴とは考えられていなかったのだという。19世紀の後半から、アメリカの天才プレーヤーがヨーロッパを荒らしたり、新聞にチェス欄ができたことでようやくチェスの序盤研究が盛んになったという話だが、新聞の役割が日本の将棋の場合と似ているのも面白いし、チェスというゲームが完成しているのに知的遊戯のイメージがなかった時代があったというのは俄には信じがたい。ポーには『メルツェルの将棋指し』というチェス自動対局人形の見世物に実際は中に人間が入っているトリックを見破る話もあったはずだがそちらへの言及はなし。閑話休題。
 質疑ではいとう氏に「チェスではなく将棋について書く予定はないか?」という質問も出たが、「チェスとアナグラムの問題に取り憑かれて20年、まだまだ何もわからないので......」という回答で、いとう氏にとってのチェスは将棋に置き換え可能なゲームではなく全く別のものなのだということは納得できた。
 若島氏からは詰将棋およびチェスプロブレムの話もいろいろ出て、冒頭のデュシャンの本で一番簡単という図面を示して白黒ともキングとポーン一枚ずつの局面で「手番を持っている方が負ける」というのを紹介。なんだそりゃ(笑。 確かにそうなってた。
 詰将棋でも図の局面に至るまでの手順を遡って考えていく「レトロ」というジャンルがあるのだそうで、「一手詰として成立しているが、実は先手番ではないことが証明できる」作例なども紹介。詰将棋の特殊な趣向ってせいぜい双玉問題くらいしか知らなかったのだが奥の深さが垣間見えた。ちょっと勉強してみようかしら。
 指し将棋が「現実」だとすると詰将棋は「虚構」にあたる対応関係だ、という話も面白かった。「現実」の指し将棋では絶対に現れないような局面を考えるのが「虚構」としての詰将棋の趣向であり、若島氏は打ち歩詰めの反則は廃止しても指し将棋にほとんど影響ないのではないかと考えているが、そういった「何のためにあるのかわからないルール」こそ詰将棋を構想する絶好のカギなのだとか。かつて羽生が「打ち歩詰めがなかったら将棋は先手必勝」と発言しそれを聞いた森下が「それが数学的に証明されたら将棋をやめる」と言った話が有名だが、実際どうなんだろう。チェスでちょうど打ち歩詰めに対応する「意味のわからないルール」がステールメイトだという。ステールメイトとは確か、チェック(王手)されてない状態でかつ合法手がない状態になったら引き分け、というルールだったと思うが(理解が正しいか自信がない)、確かに、なんでそれで引き分けなの?? と不思議に思った記憶がある。チェスのルールは例外が多すぎて美しくなくね? と昔から思ってるんだけど、ポーン同士がぶつかると正面のポーンが取れないというのもそう。「真っ直ぐしか進めないんだからぶつかったら取られちゃうに決まってるじゃん」とかいかにもヨーロッパ人の考えそうなことだ。将棋の歩は向かい合っており直進しかできず先にぶつけた方が取られる、だからこそ面白いのである。閑話休題。

対談 3 将棋と小説は似ている? 15:20 ~ 16:00

高橋弘希(小説家)× 谷口由紀(女流棋士) 進行:小谷瑛輔
 これが酷かった。二日間を通じてブッちぎりで一番つまらんのが大トリとは......。
 不勉強で高橋弘希先生の書いたものを全く読んだことがなく、芥川賞受賞直後の様子などはテレビにも映ったんでしょうけどそれも観た記憶がなく、全く何も知らない状態で臨んでしまった。例の「将棋は小説に似ている」発言のインタビュー記事だけでも予め読んでおくべきだったと反省。
 谷口女流はなんとなく大柄というかゴツいイメージだったんですが(失礼)、実物はすごくほっそりした方でした。
 まず小谷氏から、登壇をオファーしたところ「対談で、相手は将棋のプロで、谷口さんで」と高橋先生側から指名があったことを暴露(笑。 受賞作『送り火』にも「いい先生」の役どころで「室谷」(谷口女流の旧姓)という人物が登場するが珍しい名前だが元ネタは? など谷口ファンいじりに行くがはかばかしい反応がない。
 20歳頃にプロ棋士、詰将棋作家を目指していた、という話をつっこんでもそれらしい話がほとんど出てこず、子供の頃強かったから言ってみただけだったんじゃね......? という印象。
 じゃあ小説についてなら語るのかというとそうでもなく、小説の執筆は対局に似ているという例の話を谷口女流がかなり寄せていって「序盤の段階では全く先が見えない、小説もそうなのか、詰将棋は詰め上がりが見えて途中経過だけがわからない形もあるがそちらが近いのか」など質問しても回答は不明瞭。
 最後に昨日登壇したマンガ家の松本渚先生が今日も来てて質問に立ち「(将棋界の師弟制度の話からの流れで)師匠はいないとのことですが目標にしている作家や意識した作家は?」確かに訊いてみたい質問だけど絶対まともに答えそうにないなあと思ったら「小説とかあまり読まないので......」と、絶対そう言うと思った! という答えが。とにかく終始こんな調子。ハッとさせるような発言は一つもなく、よく言えば天才肌の作家が言いそうな、悪くいえば何も考えてなさそうな、いずれにせよ予想の範囲内のことしか言わないしやる気も感じられない。別にそういうキャラを気取っているわけでもなく、本当に他に何もないように見えた。ガンダムが好きという発言が二回ほどあったので松本先生は「ガンダムってどのシリーズ? ファーストなら富野監督の演出が好きってこと? 棋士をガンダムキャラにたとえると?」など食い下がっていたが何も引き出せず。逆に松本先生のほうが「むしろ森内がアムロで羽生はカミーユっぽいのでは? ってこれは失礼か!」など大暴走していて面白かった。
 なにしろ中身のある発言を全くしてくれないのである。ホントにそのへんのお兄ちゃんを連れてきただけなのでは? 「そのへんの兄ちゃんみたいな芥川賞作家」というのが既に一つのステレオタイプになっている気もするが、私は努めてそういう偏見は持つまいと意識してたんですがダメでした。
 まあそれこそが凡俗の発想なのであり、本物の天才はこんな人でした、というのがこのシンポジウムの結論なのかも(笑。 小説はさぞ面白いのだろう(あながち反語でもなく)。逆に読んでみたくなったというか、もはや読まなきゃ気が済まない感じ。

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