久しぶりの早稲田松竹だけどコロナ禍体制は特に変わってなかった。
『映画作家たちのエピソード0』ということで、ユダヤ系監督の自伝的作品というつながり。
『フェイブルマンズ』『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』
『フェイブルマンズ』はスピルバーグの自伝的映画としか知らなかったので、『ニュー・シネマ・パラダイス』的なやつか、あるいはタランティーノ的な映画と現実の区別がつかなくなっていくようなドラッグムービー的なのをなんとなくイメージしてたんだけど、タイトルの通り「フェイブルマン家の人たち」という感じだった。
「映画についての映画」である要素は主に二点、まず家族旅行の記録映像に映り込んでいた無防備な姿から母親の不倫に気づいてしまう、というシーン。しかもその相手は父の同僚で親友、同じユダヤ系なので他に友人がおらず家に入り浸っていて「叔父さん」扱いされている。父親は最先端のコンピュータ技術者なのでRCAからGE、そしてIBMへと引き抜かれてキャリアアップして行くが相棒のベニーは本来ヘッドハントの対象になっておらず一度は父に引っぱられて一緒に移籍したという立場。何とも身につまされる。母親はピアニストの才能がありながらその母の反対で大成できなかった人で、芸術家気質の息子に理解を示す。母方の大叔父はサーカスの動物の世話係から映画業界に入った人で、アーティストとして生き方を貫徹した、親族の異端者として登場し主人公に道を示す。父親は母と正反対の技術者気質だが、映画なんかより実社会で役立つものを作ろうと思わないのかと言いながらも「大勢の人間を動かして計画を遂行する」点は映画制作も技術屋の仕事も同じだ、と言ったりする。
あとは高校で主人公をイジめてたジョック野郎が、プロムで上映された記録映画で自分が「理想の男」として演出されているのを見て「あれは俺じゃない!」とショックを受けて泣く。主人公も「君がそんな風に思うなんて」と驚きつつ、口論の末に「君は最低の野郎だが映画の中では美神だ!」と言い放ち、最後は中指を立て合って別れる。映画の嘘と真実というモチーフでもなかなか他の人ではこうは描けない、スピルバーグならではのいいシーンだった。
最後にどうにか映像業界に潜り込んだ主人公がジョン・フォード監督に謁見してわけのわからない助言をもらって感激して終わるのだが、フォード監督の役がデヴィッド・リンチだったのね。
『アルマゲドン・タイム』のジェームス・グレイ監督は他の作品みたことないんだけど、いい映画でした。
アン・ハサウェイの美人すぎる教育ママと、厳しい父親、そして主人公のよき理解者である母方の祖父アンソニー・ホプキンス。ユダヤ系移民としての苦労を語るアンソニー・ホプキンスはさすがの存在感だけど、父親もいい。「パパは僕を自分と同じにさせたいだけだ!」と反発する主人公に「違う。私を遙かに超えてほしい。それが願いだ」と返す。義父であるアンソニー・ホプキンスが亡くなった時は「妻の親族は皆、私の父が配管工だったと知ると私を軽んじたが、彼だけは敬意を払ってくれた」「一族の中心だった。これからは私が代わりを務める」と言って泣く。演じてるのはジェレミー・ストロングか。他の出演作品をチェックしようにもどれを観てよいのかわからない微妙なキャリアだ(笑。
物語としては公立校で仲良くなった黒人の友達と、問題を起こして私立校に転校させられたのを機に疎遠になりかけるも、最後は家出の資金を稼ぐために一緒に盗みを働いて警察沙汰になり、決定的な別れが訪れる。主人公は「自分が計画したことです」と供述して、高潔であれという祖父の教えは守れたが、皮肉にも担当警官が父親と旧知だった縁で自分だけ無罪放免になる。「鑑別所行きになるところを非常な幸運で助かった。今日のことはなかったことにする、ママにも話さない。友達にはもう会えないが代わりに与えられた幸運を最大限に使うしかない」と父親が、「現実と戦い続けるのはしんどいだろ?」と祖父の幻影が諭す。親友との静かな別れのシーンは切ない。
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