StarDust Tears

『BLUE GIANT』(映画)

https://bluegiant-movie.jp/

新宿バルト9

 バルト9はずっと、オンライン予約してQRコードスキャンで発券したチケットを劇場入り口でモギリのスタッフがチェックしてボールペンで印を入れるという、最後だけアナログなシステムだったのだが、遂に入場まで会員コードQRスキャンで出来るようになってた。というかチケット発券してもチケットに印刷されてるQRをスキャンするだけなので発券するだけムダだった。

 脚本の NUMBER 8 は原作第2シリーズの後半から "story director" としてクレジットされている原作の共同制作者でありその正体は担当編集者で、彼が脚本を書くというのが原作者サイドから出した映画化の条件だったという。音楽の上原ひろみ(Hiromi)は作者が以前から大ファンを公言しているアーティストでライブレポート書いたりTVで対談したりしてる。TVアニメでなく映画でというのもジャズを大音響で聴かせられるからという原作サイドの意向で、つまりこれは原作者の希望が全部通ったアニメ化だと理解している。

 ジャズといってもいろいろあるわけで、原作ずっと読んでた勢として、このマンガの中で演奏されてる音楽ってどんなのか? というのが微妙にイメージしづらかったんですよ。主人公のジャズ観はとにかく「ハゲしい音楽」というもので、好きな女の子にジャズを体験させるのにコルトレーンの "Moment's Notice" を爆音で聴かせるシーンなどが現実のジャズと擦り合わせるヒントになるかと思ったのだが、主人公の演奏シーンのド迫力とは釣り合ってないというか。公式コンピレーションアルバムなども参考音源になるはずだが正直全然ピンとこない。上原ひろみもちょっとジャンル違くね? という感じだ。作中では、バンド名の "JASS" はジャズの語源にして原点みたいな意味とされているし、サブジャンルが細分化されたジャズにおいて何をやるのか? と問われた主人公らは「ジャンルが枝分かれする前のジャズの木そのもの」とか言うのだが、描写からすると明らかに、即興のソロで限界まで自分を追い込んで超絶プレーするビバップ的なやつであろうと思われる。まあもちろんそこまで綺麗に分類し切れるもんでもないですけど。
 そんなわけでみんなそうだろうけど「どんな音を鳴らすのか?」が一番気になってたところ、結論から言うと個人的にはライブシーンの演出も合わせてわりと納得できる表現だった。要するに作中の描写を素直に捉えればこうなるのであって、作者の発言とかコンピ盤とか余計なものに惑わされていたな。実際上原ひろみではあるんだけど。サントラは買おう。

 以下ネタバレ。

 いわゆる東京編というか上京したところから始まるので、それ以前のことは回想、それも演奏中のフラッシュバックみたいな画でチラッとみせるくらいしか描かれない。師匠である由井のクセの強いキャラが好きだったのでそこは残念。あと原作単行本のボーナストラックにあるドキュメンタリー風の関係者インタビューみたいなのが挿入される。確かに原作にあるけど、純粋に映画としてみると褒められた演出ではないよなあ。
 とにかく仙台編を全カットした分、雪祈と玉田の物語はしっかり描かれていて、この三人の映画になっている。玉田が最初のライブの出来に打ちのめされる話とか外せないよね! 大を中心に描かれてたらこのへんはなかったかもしれないのでよかったです。まあ大が自分の初ライブと重ねてしまうくだりはないんですけど。雪祈については音楽的な壁にぶつかって乗り越える話が必ずしも十分に描かれてたとはいえないが、最後のアレもあってある意味全体として雪祈の物語だからなあ。アオイちゃんは登場するものの(後述)再会シーンがなかったのは残念。原作では心ないことを言われて傷つくシーンが結構あるのが映画ではマイルドになってる印象はあるものの、ソーブルーの平さんに雪祈がガツンと言われるシーンはさすがにしっかりあった。その後「言いすぎたな」ってなる流れがなかったのでオファーがやや唐突な感じにはなってたけど。

 そして原作との最大の違いとして、ラストのソーブルーでのライブに無理矢理退院した雪祈が駆けつけてアンコールのみ出演、左手一本で演奏するという無茶な展開になっていた。少なくとも原作のあの感じだと事故から二日後に起き上がってること自体ありえないだろとしか言えないのだが、せっかくだから原作よりすごいものを! みたいな流れで決まったようで脚本家のコメントには自分から提案した記憶がある、と。まあせっかく演奏してる中の人も三人いるのに、みたいなこともあったのかもしれないし、もしかして原作もこうするアイディアがあったのかな? と少し思ったのは、雪祈の初登場シーンで大が度肝を抜かれたのも「左手一本、低音部のみのプレーでトランペットと渡り合ってる」ていう演出だったんですよね。だから左手だけのプレーってそれに対応した演出だったのか! と一瞬思ったんだけど、先の脚本家コメントには「書いてみると「どうしてこれを原作漫画でやらなかったんだろう」という気持ちにまでなってしまいました」とあるので原作時点では考えついてなかったようだ。
 穿ちすぎかもしれないけど、脚本が担当編集者なので、原作者以上に原作を知っているというか、原作を少し変えてる部分ももしかしたら打ち合わせ段階であった、マンガ本編の描写に入りきらなかった部分を拾ってるのかな? と思えるようなシーンがいくつかあったりして、上記のラスト改編もその一つかと思った次第。あと最後のライブを関係者がみんな観に来てるというのも映画っぽい趣向だけど、師匠も来てるのはなぜかその発想はなかったというか、これも原作にあってもおかしくないけどストーリーの流れ上で入れる余地がなかったから描かなかっただけじゃないかな? と思った。平さんが業界関係者に声かけまくってできるだけ席を埋めるって描写が原作にはあってアニメにはないのでどちらも整合性はあるというか。
 ただ、原作ではライブ後に意識が戻った雪祈のほうから「JASSは解散」と言わせてしまった大が自分を卑怯者だと責めて酔っ払って荒れてケンカして通報されて留置場にブチ込まれ兄貴が身元引き受けに来るという最高にエモい流れがなかったのはさすがに惜しい。ライブ終わって映画の最後がそれじゃ幕引きができないから仕方ないと理解はできるが、監督も流れにうまく組み込めなくて残念と言及していた。
 EDの後で大が空港から雪祈に電話してくるシーンはあって最後の最後しっかり泣かされるんですけどね。

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