StarDust Tears

ハリー・ポッターと以下略

 ハリー・ポッターのシリーズ全巻 Kindle Unlimited になってるのを見つけて読んだ。

 いやー、昔読もうと思ったんだけど、当時は読む本は全部自分で(しかも紙で)買おう的なノリだったので、なかなか文庫にならないしやっと文庫が出たら「1-Ⅰ」みたいな感じで一巻あたり何分冊もされてて、冊数がやたら増えるのがイヤでそこでやる気なくなってしまった。これに限らず、最近でも特に講談社文庫とかは一冊だったのが新装版が出る時に上下巻になるパターンが多い気がするがやめてほしい。閑話休題。

 そのまま読まずに、いつのタイミングか忘れたが映画を最初の一本だけ観た。内容はほとんど覚えてない。箒に乗って飛びながらやる球技、原作でいう「クィディッチ」のシーンが僅かに印象に残っているのと、めっちゃ怪しいスネイプ先生が敵かと思ったらそうではなくて実は気弱そうな先生(クィレル)が敵だった、というオチで、へーそういう意外な犯人みたいな趣向もあるんだ、と思ったのが記憶にある程度。それきり二作目以降は観てないので、あまり面白いとは思わなかったのだろう。それでまた原作が遠のいたともいえる。

 で、今回読んでみたら思ったよりずっと面白かったわけです。まず一巻あたりが長いからね。最初に出たハードカバー版も、ちゃんと手に取って開いてみたことはないと思うが、考えてみれば四六判で結構な厚さがあった。文庫で一冊では無理だわ、と納得せざるをえない。つまりこれ一巻を一本の映画にまとめるのは無理があるんだと思う。最後の7巻はPART1、PART2の二本の映画になってるようだが、宜なるかな。
 しかもこれ、5巻くらいまでは派手な魔法バトルとかはあんまりなくて、まあそれこそクィディッチだとか変な魔法生物だとか、絵的な見せ場はあるもののどっちかというと学園生活がメインである。そこがイメージしてたのと違った。
 あ、以下ネタバレは無制限。

 この世界の魔法は一般人(魔法使いの言葉でマグル)に対しては隠蔽されていて、魔法使いだけの社会が隠れて存在している構造なんだけど、ハリーは一歳の時に両親を亡くしてマグルの伯父の家に預けられて育つ。伯父一家は身内に魔法使いが出たので魔法のことは知ってるんだけど、保守的で世間体が命なのでハリーは「いない子」として扱われほぼ10年間虐待されて暮らした後、ホグワーツ魔法魔術学校から入学案内が届くところから話が始まる。
 ハリーは当時「闇の帝王」と恐れられていた名前を言ってはいけない例の人ことヴォルデモート卿に父母を殺されるもののただ一人生き残り、「あの人に襲撃されて唯一生還した存在」として魔法使いの世界では誰でも名前を知ってる有名人に、本人も知らないうちになってるわけです。しんどい幼年時代を過ごした後、魔法学校デビューしたら一躍有名人に、といういかにも英国教養小説っぽい展開かと思いきや、必ずしも魔法で大活躍という願望従属型の話にはならない。ハリーがなぜ例の人に殺されなかったのか? は物語全体の鍵となる謎であり、彼が特別に強い魔力の持ち主であるとかそういう描写はない。唯一、箒に乗って飛ぶことに関しては特別な才能を表してクィディッチのシーカーという花形ポジションに抜擢されるものの、それ以外の魔法には特に秀でてもおらず、むしろマグルに育てられたので魔法の常識を何も知らないというハンデを負ってスタートしている。

 ホグワーツでの学校生活も、魔法のことを何も知らないのに名前だけ有名になってしまっているのがむしろ重荷として書かれるし、特に2巻『~秘密の部屋』に登場するベストセラー本を書いたタレント教授みたいなロックハート先生が「君も私みたいに有名になりたいんだろ? わかるわかる」みたいに訳知り顔で接してきたり、有名人のハリーを単純に英雄崇拝的な憧れの目で見てくる後輩のコリンとか、すかさずそいつらに乗っかって悪意満載にイジってくるドラコ・マルフォイとか最高にイライラする日常が続く。J.K.ローリング先生、この「学校生活における理不尽で不愉快なエピソード」を書くのが実にうまい。ただでさえ名前だけ有名でやっかまれ、実際は魔法が得意なわけでもないハリーは批判的な目に晒されがちなのに、毎回手を変え品を変えさらに彼が孤立するようなシチュエーションを作ってくる。たとえば4巻『~炎のゴブレット』では魔法学校三校合同の対抗戦で、各校一人ずつのはずの代表選手になぜか四人目としてハリーがエントリーされてしまい、それは敵の策略なのだが周囲には当然のように本人が目立つためにスタンドプレーでねじ込んだと思われ、親友のロンまで離反してしまう。これでもかというくらいハリーを追い込んでいくのである。
 あとはこれも英国式なのか、教師の権威が非常に強く、生徒への賞罰として寮別に持っている評価ポイントを気分次第で加点したり減点したり、追試や居残りを課して課外活動(クィディッチ)をできなくしたり、この方面でもスネイプ先生に嫌われているハリーは酷い目にあう。
 そう、最初の映画(原作1巻)では「見た感じすごく悪人っぽいけど意外にも敵ではなかった」ポジションだったスネイプ先生なので、これは「怖いけど実はいい先生」というキャラなのかと思っていたが、原作を読むと全然そうではない(笑。 ハリーに対して尋常ではない憎悪を向ける、学校編における最大の敵役というべき存在であり続ける。というか、メインストーリー上もダンブルドア校長に次ぐ重要人物で物語の最後のキーマンになる。ここまで核心に触れるキャラとは思ってなかった。
 ハリー・ポッターがリアルタイム展開中で一番流行っていた頃、二次創作のサブジャンルというかタグ付けで「親世代」というのをよく見かけたので、そういう過去エピソードの回想みたいなのも書かれるんだろうなとは知ってたが、なるほどこれが実にオイシイ。3巻『~アズカバンの囚人』に登場するシリウス・ブラックと狼男のルーピン先生がハリーの父ジェームズの親友、そしてグループのキョロ充みたいな存在だったペディグリューの裏切りがジェームスの殺された原因になったという。「父の親友」というシリウスおじさんがムチャクチャかっけー! となったのはまさに作者の計算通りであろう。映画は本当に知らなかったのだがシリウス役がゲイリー・オールドマン! と知って観たくなった。ルーピン先生の枯れた感じも実にイイ。ルーピンて Lupin つまりルパンの英語読みだよね。
 当時の父ジェームスはイケメンかつ魔法も超優秀、しかも悪ガキで、まさにスクールカースト頂点のスター学生。ところが、スネイプ先生の過去の記憶を魔法で垣間見たハリーは、ジェームスが同級生だったスネイプをいじめてたこと、その時点では母リリーに嫌われていたことを知ってしまう。シリウス、ルーピンに訊いても「あれだけ優秀だったから若気の至りで傲慢な時期もあったが、その後は改まった……」「スネイプとは最初からお互い反りが合わなかった。そういうことあるだろ?」みたいな感じで歯切れが悪い。この部分は、心の支えだった父への尊敬が揺らぐ、という、あくまでハリーの側の受け止め方の問題として書かれているが、ジェームスがいじめっ子だった事実は動かないので、まあ親の罪は子に責任はないとはいえ、スネイプがジェームス大嫌いだったのは当然だし、その子である(父親に生き写しと言われる)ハリーを目の敵にするのも心情的には仕方ないよなあ、と思えてしまう。
 最後まで書いてしまうと、スネイプはかつてはヴォルデモート卿の配下だったのが、現在はその最大の敵手であるダンブルドアの側について二重スパイを務めている。当然、また敵側に戻るのではないか? と何度も疑われるのだが、ダンブルドアだけは絶対の確信を持って重用し続ける。その根拠は何なのか? は最後の最後で明かされる。ハリーの母リリーとスネイプは実は幼馴染み(!)で、スネイプはずっとリリーが好きだったので、ジェームズとリリーが殺されたのに衝撃を受けて例の人から離反したと。彼女を死なせたのをずっと後悔し続けているのをダンブルドアだけは知っていたので、二度と敵に回ることはないとわかっていた、て話。しかし、つーことは、スネイプはいじめっ子であるジェームスに好きな女の子を取られていたわけで(笑、そりゃ恨み骨髄であろう。でも、そもそもなんでリリーがジェームスの方に靡いてしまったのかというと、スネイプが魔法使いの「純血主義」を標榜するヴォルデモートのシンパになったからなんですよね。親がマグルだったリリーを「穢れた血」呼ばわりしてしまったことで二人は決定的に仲違いしてしまう。では、そもそもなぜスネイプはヴォルデモートの思想に共鳴してしまったのか? ていう部分が結局わからない。ジェームスが傲慢だった、というのと同じで若気の至りなのだろうか。後述するダンブルドアも同じように若気の至りで危険な思想に染まるエピソードが書かれるので、作者の基本的な人間観なのかもしれない。だけどスネイプがかつてはヴォルデモートの配下「死食い人」だったという事実は物語の核心中の核心に関わるのでそこは書いてほしかったかなあ。まあ、これはあくまでハリー・ポッターの物語なので、彼から見た過去の経緯は魔法で知ることができる範囲のことしかわからない、という線引きなのかもしれない。

 それから、もう一人の主人公に近いキャラともいえる校長アルバス・ダンブルドア先生。当代一の偉大な魔法使いでヴォルデモートが唯一恐れる存在、とされているが、まあ設定上そうなってるだけかな? と思っていると、最初は思慮深く優しい校長先生、くらいの感じだったのが、物語の中でどんどん存在感を増し真に偉大な指導者として説得力のある形で書かれる。ある意味でヴォルデモートと戦っていたのはハリーよりダンブルドアであり、最初から最後まで戦いはその思惑通りに進行し、ハリー自身も途中、その戦いの駒として校長に動かされているだけではないか? と感じるくだりがあるのだが、既に書いた通りスネイプも駒として使い切り、自分の死をも作戦に組み入れてその後の展開まで読み切っていた、ヴォルデモートより完全に上の卓越した策略家として演出されているのがすごい。なかなかこうは書けない。官僚的な「魔法省」の政治や下世話なジャーナリストに超然として対する姿も一つの理想像として書かれている。そしてその死後に明かされる若き日の過ちも。

 児童文学としては、魔法学校を決してユートピア的にではなく、前述の通りイヤな先生もいればイヤな同級生もいる、しんどいことも多い学校生活あるあるに引きつけて書いているのがミソだろうか。魔法省のどうしようもない官僚主義、ゲスなジャーナリズムなどもそうだが、なにげに重要なのは「予言」を決定論として書いていないことだと思う。予言ではヴォルデモートと対になる存在は7月の終わりに生まれた子、で、ハリーともう一人、ネビルにその可能性があった。ヴォルデモートがハリーを先に殺そうとしたことで、その呪いが跳ね返ってハリーと自分を不倶戴天の存在にしてしまう。ヴォルデモートに対しては予言は遂行的に実現しているが、ハリーに対しては、ヴォルデモートと戦うのは予言されたからやらなくてはならないのではない、父母を殺された自分の意思で行うことだ、とその区別を校長が繰り返し強調する。ジャパンでいうとドラクエ的な「魔王と勇者」の決定論的な世界に見えるのだが、あくまで自由意志を強調してみせるのが現代的なところ。それから、魔法使いの「純血主義」が敵側のイデオロギーだが、そもそもマグルをどこか下に見ているのは魔法使い全体の風潮で、マグルの親を持つ魔法使いを「穢れた血」と呼ぶなど露骨に差別を描いてるんだけど英国的にはどうなんだろ。「しもべ妖精」を奴隷として見た優等生のハーマイオニーがその人権運動に躍起になるところなんかは明らかにシニカルに書かれているし、説教くさい感じではない。あー、ハリーと伯父一家の関係は最悪だけど「深いところでは愛情でつながっている」みたいなことをわりと最初の方で言うのはさすがにとってつけた感じかな。最後の別れるシーンで、伯母ペチュニアと従兄ダドリーに関しては一応回収されてたか。ペチュニアが母の姉だから血縁があるのはその二人なわけで、伯母の魔法コンプレックスの過去もチラッと書かれているので、まあこのくらいなのかもしれない。

 クライマックスはホグワーツ全校挙げての最終決戦だったり、実質最初に覚えた呪文「エクスペリアームズ」で最後に勝つところなんかはまさに物語の王道で気持ちいい。最初はどうしようもない落ちこぼれだったネビルの成長っぷりも、若干やりすぎ感はあるが最後だからまあこれくらいありか、みたいな。
 ただ、魔法使いとして特別強いわけではないハリーがどうしてヴォルデモートに対抗できて、遂には勝てたのか、という説明がいろいろ理屈で語られるのだが、仮死状態になったハリーのインナースペースで校長が滔々と話すそのくだりだけまるで那須きのこ節である(笑。 自分の命と引き替えに息子のハリーを守る魔法が「愛」を知らないヴォルデモートには理解不能だった、とか、両者の杖が同じ不死鳥の羽を材料に使った双子の杖だったので二度目の対決の際に特別な効果を発揮した、とか、それを知ったヴォルデモートが代わりに最強の杖を手に入れようとして、その持ち主が他ならぬダンブルドアで、その杖は正当な持ち主に勝つことでしか所有権を得られないので校長が死ぬ際に云々、ハリー自身がヴォルデモートの魂の欠片を封じた分霊箱の一つだったので彼が死ぬことでしかヴォルデモートを殺せないはずだったけどヴォルデモートがハリーの血を体内に取り入れたことで母のかけた守りの魔法がもう一度効果を発揮してハリーは死なずに済んだ、など、急にややこしい理屈が怒濤のように語られる。でも、ずっと不可解だったスネイプとダンブルドアの言動が綺麗に解明されて、ハリーの疑心、不信にシンクロしてたのがスッキリするプロットはやっぱりすごい。

 以上、一気読みしたのでさすがに消化し切れてない部分も多いと思われ、いずれじっくり読み直そうと思う。
 まずは映画版観るか。

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