StarDust Tears

アガサ・クリスティー『親指のうずき』

 最近またテレビドラマ化されたとかでKindleのクリスティー文庫フェアというのをやってたので大量に買い込んでしまった。ドラマは三谷幸喜のしか観てないけど。

 クリスティーは昔、古本で手当たり次第に買って読んでた時期があるのであの赤い背表紙のハヤカワ文庫(今はクリスティー文庫)だけで紙袋ひとつ一杯になるくらいあって、たぶん全作品の半分くらいは読んだと思う。クリスティーにハズレなし、というわけで、たとえメイントリックは微妙でオチは拍子抜けなやつでも一気に最後まで読ませる語りの巧さこそがクリスティーの真骨頂だと思う。「意外な犯人」でもミステリ史に残るやつをいくつも書いてる女史のことだからそちらで評価されがちだが、むしろプロットが地味なやつの方が味がある。後年は回想殺人やそれに類するものが多くなった(?)のも、本人も持ち味がよくわかってたからではないか。

 というわけで本書『親指のうずき』はシリーズ探偵であるトミー&タペンスものの四作目。ポアロほどの知名度はないだろうけど私は大好きなシリーズである。一作目の『秘密機関』は確か小学生の頃に児童向けに抄訳されたやつで読んだ。大戦間期、というか第一次大戦直後を舞台にしたスパイもの冒険小説。二作目の『おしどり探偵』(以下タイトルはハヤカワ版に準拠するが当時読んだのはたまたま家にあった創元推理文庫版の『二人で探偵を』だった。原題は "Partners in Crime")はそのテイストを引き継ぎつつ二人が探偵事務所を預かり各種事件を解決する短編連作で、毎回別の名探偵のモノマネをするというパロディ要素も入ったコメディ。三作目『NかMか』は第二次大戦中の1940年を書いたスパイスリラー。以上の通り作中時間は何十年にも渡り、トミーとタペンスの二人は一作目のラストで結婚し、二作目の最後で子供が出来、三作目では子供達はすでに成人し独立しているなど一代記としてシリーズ展開している。って、今回のフェアでまた順番に読み直して思ったんだけど、二作目の『おしどり探偵』は発表が1929年で、結婚してから6年、トミーは32歳になったと書かれているので1920年代後半の出来事のはずである。そこから考えると1940年の時点で子供はまだミドルティーンのはずで、息子がもう軍にいるのはおかしいよなあ。どこかで設定が変わったんだろうか。解説などがないのでわからん。紙のクリスティー文庫には巻末解説ってあるんだっけ? それに創元推理文庫版の『二人で探偵を』は各編が出題編・解決編に分かれていて、後編の章題が『~(承前)』となっていたのを覚えている。ところがハヤカワ版『おしどり探偵』は一つの事件が一話になっていて前後編が分かれていない。これは編集の裁量で変えられる範囲内だろうか? それとも底本のバージョン違いがあるのか? 謎である。閑話休題。
 四作目『親指のうずき』の巻頭には、トミーとタペンスのその後はどうなった? という世界中からのファンレターに応えて書かれた、とある。発表は1968年、作中でこの年なら二人はすでに70代になっているはずだが、「初老」とあるのでもっと以前の話のようである。
 クリスティーの作品中である程度メジャーと言えるのはおそらく最初の二作、『秘密機関』と『おしどり探偵』までであり、あとは特にこのシリーズを追って読んだファンにしか知られていまい(ちなみにシリーズは『運命の裏木戸』までの全五作である)。私もご多分に漏れず若い頃(笑)は特に二作目が好きで、年寄りになってしまった二人の話なんてちょっとなあ、という感じだった。五作一通り読んではいたが、ナチスのスパイの話だった『NかMか』はともかく、『親指のうずき』『運命の裏木戸』は今回読み直すにあたって内容を全く記憶してなかったくらいである。
 ではなぜ今『親指のうずき』をピックアップして書くのかというと、これぞまさに冒頭に書いたクリスティーの醍醐味、語りの巧さでストーリーを引っ張る小説の典型で、今回読んで感心したから。ちなみにタイトルは『マクベス』からの引用。根拠はないがとにかく不吉な予感がするというのを「親指がずきずきする」と表現したものである。
 この小説では全体の半分をすぎても事件らしい事件はなく、回想殺人ものでいう過去の犯罪の痕跡もまだはっきりせず、タペンスが直感した疑問を調べるために行動しているだけでそこまで引っ張っている。それで読ませるのがすごい。だいたい女史は冒頭に出てきたちょっとした言葉やメモ、といった一つの手がかりだけをきっかけに話を始めて展開していく、将棋で言うと「細い攻めをつなぐ」のが抜群に巧い。『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』は崖から転落死した男が死ぬ直前に意識を取り戻して言い残した一言がタイトルで、事故死と看做されたのに主人公だけが疑問を持ったまま延々と続き、そもそもエヴァンズとは何者なのかが明かされるのは終盤である。そしてエラリー・クイーン風の難解な無理のあるダイイング・メッセージ解釈に比べても納得のいくオチである。こういう、最初に一つポンと投げ出したネタから引っ張って引っ張って転がして結末まで持っていく手管はまさに女史の独壇場であろう。イメージとしては刑事コロンボが完全犯罪に近いトリックのたった一つの疑問点に食いついて見逃さず、遂に真相まで辿り着くのに似ている。
 もう少し脱線すると、今回またクリスティーの必ずしも有名作品でないものも含めいくつも読んでみて思ったのは、広義の人物入れ替わりトリックがわりと多い。スパイものは前提としてスパイが別人に成りすましているわけだから別として。現代では成立させづらい人物入れ替わりではあるが、入れ替わりパターンも豊富だし実は立場が違ったことで動機も変わってくるなど使い方も巧い。中にはかなり雑で科学捜査云々以前にそれは成立しないだろ! てのもあるが(笑、あまり有名作品では使われてる印象がない人物入れ替わりが、全体としてはやたら多いなあと感じたのが今回の発見。書かれた時期にもよるのかしら。あと中盤くらいで被害者の過去の悪事が明るみに出て、それで昔酷い目に遭った人物の関係者による復讐なのではないか? みたいな話になるパターンが多い。何十年も前のことだから消息がわからず、当時は子供だったので今はどんな人物になっているかもわからない、それが名前を変えてこの事件の関係者に紛れ込んでいるのではないか、みたいな。大抵はミスリーディングなわけですが、このノリは『金田一少年の事件簿』なんかも大いに意識して取り入れているところではないかと。閑話休題。

 『親指のうずき』に戻るが、冒頭の謎はトミーの伯母がいる老人ホームで会った老女がタペンスに「死んだ子供が暖炉に埋まっている」みたいな話をする。もちろん他の入所者も含めボケ老人だらけで彼らがどんな突飛な妄想を喋るかというエピソードがふんだんに語られるので誰もその話を本気にしない。しかし彼女に「あれはあなたの子供でしたの?」と言われたタペンスはなぜかゾクッとし、そしてまた彼女の持ち物だった風景画に描かれた家になぜか見覚えがある、というところから出発する。私も途中まで意識していなかったが「全く知らないはずの家になぜか見覚えがある」というのは『スリーピング・マーダー』と同じパターンであり、死んだ子供の話を「あなたの子でしたの?」と言われて胸騒ぎを感じるタペンスにまさか忌まわしい過去があったのか? とこっちも無意識にイヤな予感を覚えながら読んでいたらしい。意図せざるミスディレクションになっていた。『スリーピング・マーダー』も、最初に読んだ時は別に感心しなかった記憶があるが、初読時は(ミステリは特に)バーッと勢いで雑に読んでしまうクセが(今でもわりと)あるので当時は味わいが全くわからなかったのだろう。そのため回想殺人ジャンル自体が長年好きではなかった。今読むと当然ながらメッチャ面白い。
 この(『親指~』の)、主人公が知らないはずのことを知っていて自分でも不可解、って感じ、最初は(スリーピング・マーダーが念頭になく)『三十棺桶島』の冒頭みたいだな、と思ったが、それは不可解な事実が不条理というかオカルト的な解釈の余地を残したまま終盤まで引っ張る雰囲気が近いための連想だろうか。過去作のスパイものでは時に生命の危険に晒されることはあっても常に陽性のキャラクターだったタペンスが初めて、「子供の死体」というキーワードの謎によっていわば母親としての本能を刺激される恐怖を描いているのであって、その意味ではやはりシリーズ中でも異色作だろう。

 あとはあれか、結末の投げっ放し感。意外とミス・マープルなんかも関係者を全員集めておもむろに真相を喋り始めるみたいなことをやってたりするが、一方でスパイものは特に、犯人が分かればあとはわかるでしょ! みたいにほとんど説明なしで終わっちゃったりする。え、あそこは何だったの? みたいに疑問が残ったりするし、どうかすると犯人が捕まるシーンも描写がなく伝聞で済ませてたりするし、『NかMか』も真犯人が判明するシーンは劇的だが、そこでパタッと終わってしまい、正体を暴かれたスパイのリアクションが描かれてないのはどうかと思った。まあサスペンス色の強いやつは特に、クライマックスで真相が明かされると同時に主人公も危機に陥って間一髪助かって終了、のパターンになるので、エピローグで補足があるにしてもそんなに長々とやってられないということかもしれない。

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