StarDust Tears

『ルックバック』

新宿バルト9

 原作が好きすぎると、アニメ化、映画化してもあえて観る気がおきないというか、期待値を越えてこないのがわかっちゃってる場合は観る必要もないなと判断してしまうことも多いのだが、なぜこれは観ようと思ったのか自分でもよくわからん。事前情報ほとんどなかったのに。押山清高監督って『フリップフラッパーズ』の人か。パンフ読んで知った。キービジュアル見て直感的にこれはいけそうと思ったのか。そんなもんかもしれん。

 原作に思い入れありすぎて、二人が最初に会う場面でもう泣きそうになってたくらいなので、冷静な評価は望むべくもないのだが、過不足ない映像化だったと思う。本編57分て短くない? と思ってたけどそうでもなかったね。原作は普通に短めのJC1冊分、150ページあって、脚本だとペラ(200字詰)1枚が1分換算なんてよく言われるけど、マンガの1ページはそれより短いだろうと考えるとそんなもんか。

 原作者が映画ファンでもあり、また長編としてまとめて描かれたこともあって、技法も構成も非常に映画的なマンガなので、映画にしてよく馴染む部分も多いが、マンガならではの部分は逆に際立っていた。つまり作中の四コママンガの表現である。四コマのストーリーを補完してアニメで表現したやつは面白いけどこれが何回もあったらちょっとキツいなと思ってたら一本だけだったし、さすが演出もわかってる。あとはやはり藤野と京本の四コマが初めて並んで掲載され、両者の差が一目瞭然に見えてしまうシーン。マンガではばーんと全体を一枚で見せることで表現していたが、横長のスクリーンではそれも難しく、工夫して見せてはいたが微妙だった。

 先に書いた藤野と京本が初めて顔を合わせるシーン、京本の緻密な画に圧倒されずっと一方的にライバル視していた(と思っていた)その相手が実は自分に対し限りないリスペクトを持つファンだったことを知り、藤野はおそらくその場ではまだあまり実感できていないこともあって平静を装うものの、帰り道で嬉しさを噛みしめてどんどんテンションが上がって行く、そこは原作以上に尺をたっぷり使っていて素晴らしかった。京本が訛っているのも、自分にはない発想だったがやられてみるとなるほどという演出だ。キャストも発表されたときはなんで声優使わないんだろと正直思ったが、少なくともメインの二人はこの映画に合っててよかった。って他にあまり重要キャラはいないわけだが。

 原作を読むたびに泣いてしまうのは二人が訣別するシーン。引き籠もりだった京本を連れ出した藤野、という関係は一見、前者が後者に一方的に依存しているようだが、ここでは自分の拠り所とする絵がもっと巧くなるために自立したいと覚悟を決めている京本に対し、ずっと二人でマンガを描いてきたのに京本が離れて一人になる、そのことをより恐れているのは実は藤野のほうだ。京本もそんな藤野の心理まではわかっていない。だから藤野はあくまで上から引き留めようと心ない言葉を投げ、京本はそれに反発する。この関係性がすごい。

 四コママンガを描いた短冊がドアの下の隙間をすり抜け、ドアの向こうの人物がそれを読んだ影響で行動を起こす、という流れが反復されるのは、「発表された作品は作者の手を離れ、時間も空間も超えて読み手に何かを伝えることがある」というテーマの象徴的な表現である。そのことをこれほどまでにスタイリッシュに、力強く描いたマンガが、映画があったろうか。

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