『スーパーマン』/『罪人たち』
『スーパーマン』は犬がすごいみたいな話はチラッと聞こえてたけどスーパードッグのクリプトだとは知らんかった。
まず役者がクラシックなスーパーマン顔でいいね。よくこんな人がいたもんだ。ジョン・ウィリアムズのテーマ曲のモチーフを使っていてリチャード・ドナー版へのオマージュが強い。レックスの愛人のイブもコミックにはいない、ドナー映画からの再登場だとか。
スーパーヒーロー映画としては必ずしも好みではないんだけど、スーパーマン映画としては「オリジンストーリーを描いていない」とみんな指摘してて、最初からスーパーマンだけどいきなり強敵に負けて血ヘド吐いて這いつくばってるシーンから始まる。個人的に気になったのは(正体を知る)ロイス・レーンがスーパーマンのインタビュー取材をする、というシーンでクラークが「スーパーマンを三人称で呼んだ」とロイスが指摘するくだり。このスーパーマンはクラークのほうが素で、スーパーマンは彼にとって「理想の自分」であるわけだ。
旧リチャード・ドナー(というかクリストファー・リーブ)版の何作目か忘れたけど、こういうシーンがある。ロイスとは別にクラークにアプローチする女がいて、パーティー会場に着飾って現れる。気が利かないクラークにロイスがこっそり「ドレスを褒めなさい」と指示すると、「いい、ドレス、だね」と棒読みで褒めるクラーク。ロイスは「あちゃー」みたいなリアクションをする。で、どういう流れか忘れたけどクラークが姿を消してその場にスーパーマンが現れると彼女に「ステキなドレスですね」と如才なく褒める、というギャグがあった。当時(70~80年代)のクラーク・ケントは今よりボンクラなキャラだったわけだが、もちろんスーパーマンになったからといって女性の扱いがうまくなる能力があるわけではないしそもそも変身前・変身後で能力が変わるわけじゃないし、ていうか変身でもない。クラーク・ケントとスーパーマンは完全にイコールの存在だ。つまり、(新聞記者の仕事にスーパーマンの能力はあまり役立たないからそこは本当に有能じゃないのかもしれないが)クラーク・ケントの時はわざと女性慣れしていないフリをしているわけだ。このシーンを最初に観た時すげえ違和感があったのを覚えている。なぜそんなことする必要あるの? と。
『バットマン・ビギンズ』でも、チベットの山奥でニンジャの修行をしてバットマンになったブルース・ウェインは、わざと大富豪のドラ息子として乱行に及んでみせ、ヒロインのレイチェルに「これは本当の僕じゃない」とか言い訳したりする。たぶんこのパターンは覆面で正体を隠したヒーローの元祖『怪傑ゾロ』まで遡ることができる。ゾロはスマートにヒロインを口説くのに、その正体であるドン・ディエゴはダメ男で、気が利かないことばかり言ってヒロインを怒らせる。正体を隠すためとはいえそこまでやる必要ねえだろ! というレベルでヒロインの神経を逆撫でしまくるのである。最後に正体が明かされて、なんでそこまでボンクラを演じてたのか訊かれると「やってるうちにどっちが本当の自分かわからなくなった」みたいなことを言う(と記憶している)。そこがちょっと面白いのである。
何が言いたいのかというと、スーパーヒーローの人格が素で、ふだんの日常生活は別の自分を演じているってなんか変だよね? という話で、個人的にはそこがスーパーヒーローものの一つのポイントだと思っている。たとえばスパイダーマンなんかはマスクで正体を隠していても明らかにピーター・パーカーそのものの人格なわけだ。「親愛なる隣人」というキャッチフレーズもそれを表している。閑話休題。
あとクリプトン星の両親からのメッセージの後半が破損してたのを復元したら実は「地球を支配しろ」と言うてたという話。未開の(?)惑星に産まれたばかりの自分の子供を単身送り込む両親の正直な気持ちとしては実は別にそれほど酷い話でもないのかもしれないけど、完全に「産みの親より育ての親」が結論で終わっているのもすごい。これも前に書いたバットマン映画における父トーマス・ウェインの偽善性に通じるものがあるかもしれない。
DCU自体には期待してるのでそのうちバットマンも出てくるのかは気になる。
『罪人たち』は、『クリード』のライアン・クーグラー&マイケル・B・ジョーダンの映画ね、ということ以外は本当に何も知らずに観て、それがよかった。早稲田松竹の今回の二本立ては「ライアン・クーグラー×ジェームズ・ガン わたしたちはどこからきたのか ~ルーツをめぐる2つのアメリカ映画~」という企画で、だからアメリカの象徴であるスーパーマンと、黒人の公民権運動の歴史みたいな話かな~と漠然とそういう映画をイメージしてたとこがあるんだけど、ところが同じ週のレイトショーが『フロム・ダスク・ティル・ドーン』なんですよね。今にして思えばこれはどう考えてもアメリカのルーツがどうたらという映画ではない。つまりこの『罪人たち』は明らかに『フロム・ダスク・ティル・ドーン』を下敷きにした構成の映画で、元ネタのほうをレイトショーにしたという趣向だったんですね。本当に知らんかったのでビックリした。
途中まで『罪人たち』(Sinners)って「十字路で悪魔に魂を売った」的なあれかと思って音楽の悪魔的魅力を描くブルーズ映画かーいいじゃん、と思ってたら吸血鬼ですよ。逆に吸血鬼の妖しい魅力を音楽で表現する趣向だったのね。最初の吸血鬼がアイリッシュ系なのでカントリー、黒人はブルーズという対置になってるのもいい。いわゆるミュージカル映画とは違うけど、クラブのダンスシーンとか本当に音楽が良くてそこだけでもまた観たくなる。
でも、ホラー映画としてはどうかというか、個人的にはフロム・ダスク・ティル・ドーンも前半が好きだったから後半なんじゃこりゃと思ったクチなので、全員ニンニクを食って吸血鬼になってないことを証明するシーンなんかはよかったけど、最後の大乱闘(?)シーンなんかはどう楽しんでいいのかよくわからん。ラストにもう一捻りあるのはよかったけどね。
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